大湊小学校
大湊小学校(昭和34年築、平成10年解体)
青森県むつ市大湊上町43-32
さあはじまつた視察旅行
大湊小学校再建特別委員会
大湊小学校再建の為の特別委員会が九日町役場に於て開かれ、その結果、ブロツク建築の為には之れがモデル校舎を視察する必要ありと結論を下し、その結果議会側から正副議長特別委員会から八名、教委から一名、町助役計十二名を以つて編成し十三日から三泊四日の日程で小樽市の高校々舎を視察することになつた。
経費は一人九千五十円の町支出で軽く十万円が使われるもの。
何んだ彼んだと町民の為に町民に依る町民の政治を施く為に寝食を忘れて挺身している町議会員諸公のこのようなモクロミは相当以上の効果を挙げて来るものではないかと無条件に双手を挙げて喜んでいる処(たゞし真意はその逆であることは必ずしも一部町民ばかりとは言えぬ)
大事な子弟を養成する為に理想的な校舎を建てゝ下さる之等関係者の気持は実に賞讃的なもの、出来れば日々の苦労を序に阿寒湖、洞爺湖、登別等迄足をのばし流して来て貰えたいものかも知れない。大湊小學校はブロツク建築か
目下佐々木大湊町長を首めとして同校再建特別委員会が中心となつて大湊小学校の再建の件で頭を痛めているようであるが
“焼けない学校建築と云う主目標の下に”
ブロツク建築にすべきである、いなブロツク建築には未だ研究の要ありとの意見が二つに別れて之れ迄数回に亘り協議会進められている。つなみにブロツク建築の場合は五千七百万円の起債の承認があるらしく、また木造建築の場合は三千六万円位より起債が許されぬものらしい…。
何れにしても危険、強靭、衛生の三面から両者が今少し真劔に検討する要あり、その上に立つて早急に新築して貰えたいものであると云うのが一般町民の与論である。
『旬報志もきた』第231号(昭和33年4月7日)
まだ決まらぬ大小の再建基準
焼失した大湊小学校の再建に就いては当局はその後色々の協議会や会議等を開いて話合つているようだが、今迄の処、木造ともブロツク建ともに決定していない=不燃質の建物にしたいと言う考えから去る十三日町議会の大湊小学校再建特別委員の中から、小笠原、高橋、本山、瀬川(哲)、佐々木(喜)、荒井副議長の六名、それに三浦助役、大室教育委員会事務局長の八名が北海道に出張し小樽、札幌市のブロツク建校舎を視察して十六日帰町したが、その視察団員の十七日の報告会に於て視察結果に就いて詳細に丁寧に報告すべきものを、報告会は再建特別委員会の招集なりや町議会の招集なりや等と徒らに招集されたその会合の性格に就いてのみ約三時間に亘りお互が議論しあい、肝腎のブロツク建築の善悪に就いては克明なる報告ないまゝに、今度は視察団員を中心とする連中から「北海道の学校は何処も立派である。そして鉄筋建である。よつて大湊小学校も鉄筋とせよ、佐々木町長は此際政治性を最高度に発揮して起債獲得に邁進せよ」と詰寄りその結果、佐々木町長は廿一日上京して既に提出中の起債申請書類を鉄筋建に設計変更して関係方面に再度折衝努力することにして十七日の報告を閉ずる。
…………
視察と云うことはいわゆるたゞ見て廻るものであるか如何かは知らないが、今度の視察団は各自の旅費以外(一人九千五十円)議長と町長の交際費各一万円計二万円を持つて出かけたものである――。出かける場合は余れば返しからの言分でその交際費を持出して行つたものでそれが帰町してみたらその交際費、議長分一万円が雲散霧消していた。
『旬報志もきた』第232号(昭和33年4月17日)
鉄骨円型三階校舎建築計画
大湊小学校の再建に就いて関係当局は非常なる努力を払つている模様であるが、今回起債約五千二百万円の見通しがついた処から鉄骨で円型三階校舎を一坪五万円の割合で一、三六〇坪、六千五百万円を以つて建築する計画を樹てた。
鉄骨円型校舎は千葉県習志野にあつて学校々舎としては全く理想的なものである…とは佐々木町長の弁。
『旬報志もきた』第235号(昭和33年6月7日)
大湊小三階の円型校舎に本決り
あれだこれだと騒いでいた大湊小学校の再建は今回ようやく鉄骨で円型三階建一三六〇・三八坪、一坪当四万三千円で建築することになつた。設計は目下東京の坂本建設事務所で百六十万円の経費をもつて作成中であつて順調に進めば七月中旬には入札着工の運びとなる模様でこの経費は起債をもつて之れに充当する計画でいるが、今日迄の処五千二百万円は大蔵省と自治庁共に無事通過しているが、目標六千二百万円を獲得すべく関係方面の応援を得て運動を展開中である…と。
尚之れが起債認可迄には二区選出の竹内代議士(解散前は大蔵委員であつた)の特別の世話によつて此処迄漕ぎ付けたものである…と(註 佐々木町長議会に於ける報告である)
着工すれば一二○日位で完成するとのことであつて入札は指名方式を採り鹿島、大成、大林、竹中等のような大請負業者を指名するものなりと。
『旬報志もきた』第236号(昭和33年6月17日)
大湊小学校校舎落成に当つて
大湊町議会議長
辻新次郎
昭和三十三年一月三十一日未明けたたましいサイレンの音…直ちに現場へ…既に校舎の大半は猛火に包まれ…たゞ茫然自失するばかりでありました。町長出張中でもあり即日緊急町議会全員協議会を町長の帰庁を待つて引続き緊急臨時町議会が招集せられ復旧対策の協議…大湊小学校全焼の日であります。翌二日には町長と共に取りあえず災害復旧に関し県庁並に教育庁に陳情、最初は原形復旧の線で進んだのでありますが議会でも特別委員会を設置し検討した結果、ブロツク説も出され、ブロツク校舎の視察が決定されたのであります。候補校として積雪地にある小樽潮陵高校が選定され理事者側、教委側並に特別委の一行が出張したのであります。一行は道教育庁道庁建築課の好意により、ブロツク建築潮陵高校の外に鉄筋コンクリート円形校舎の石山中学校、その他を見学詳細な説明を聴取、資料を携えて帰町したのでありますが、結論としては単なるブロツク建築では強度、湿度、採光、その他の欠点があること、之等の欠点を解消するためには鉄筋コンクリート建と同額を要すること、鉄筋コンクリート建は坪当り四万五千円で可能な事等が判明したのであります。よつて特別委としては鉄筋円形の結論を出し、理事者側も同意、教委とも連絡の上、議会の決議を得たのでありますが、この間原形の木造、講堂鉄骨一部ブロツク木造、鉄筋コンクリート円形と設計も三転、四転、之が起債の獲得に理事者、議会一体となつて努力したのでありますが、焼失以来半歳有余にして遂に総工費七千二百万円に対し異例の六千二百万円の起債許可が確定し、我々の夢が実現したのであります。災害復旧は国庫補助もなく又起債対象は原形をたてまえとすると云う事は、超過する部分を自己財源で賄わない限り不燃焼建築等が出来ないということで、地方自治体財政逼迫の甚だしい今日においてまことに不合理なことであると憤慨してみても国家の方針として今日まで実施されて来た規定であるならばひとり大湊町だけに特別の措置がなされるとは当初は考えられなかつたことであります。然るに補助は不可能でありましたが、不燃焼建築に対する起債が全面的に認下されたのであります。之一重に県当局、自治庁、大蔵省の御好意は勿論のこと竹内代議士をはじめ本県一区選出の各代議士の御協力の賜ものと感謝の誠を捧げるものであります。と共に合併にふみきつた事が預つて力があつた事を特に強調したいのであります。
今落成した近代的偉容をほこる新校舎を目のあたり見るに当り洵に感無量のものがあります。
この校舎が実現するについては協力会、婦人会をはじめ全町民のなみなみならぬ熱意と協力がこめられて居るのでありまして、町長を頂点として町民混然一体となつた力によるものであると感じるものでありまして今更ながら深甚なる敬意を表するものであります。
今後おそらくあらゆる会合に利用され、また見学者も殺到することゝ思われますが、町当局並に管理者は心よくこれを開放し、親切に案内してあげる心構えが必要であると思います。
尚大湊小学校学童に対して望みたいことはこの様な立派な校舎に学ぶ機会を得た諸君は、校舎に辱じないよい子としてよく学び、よく遊んで他校の模範となる様な立派な成績を挙げられる様心がけて頂きたいことであります。
『旬報志もきた』第269号(昭和34年7月27日)
二学期から新校舎で勉強だ
焼けた大湊小、立派に復旧
全焼した大湊小学校の復旧校舎はすつかりできあがつた。昨年九月から着工していたもので、これまでいろいろ不便な目にあつていた生徒たちも長い夏休みが終るとこの立派な校舎で勉強できるとはりきつている。工費は六千三百余万円総坪数四千五百二十六平方メートル余りの屋内体育館をはさんだ三階建鉄筋コンクリートの円型校舎で、県内はもちろん、東北でも珍しい建築である。教室二十七、特別室の音楽室、放送室、職員室、校長室、事務室、当直室、衛生室、給食室、調理室のほか便所(水洗式)、ポンプ室、浄化槽(地下室)などがある。
【写真…モダンな大湊小の円型校舎】
『東奥日報』昭和34年7月29日6面「津軽版」
大湊小学校
【円形校舎とともに教育の先端をゆく】
釜臥山を背に、波静かな大湊湾を前に、植物園や岩石園など花と緑に包まれた“円くモダンな校舎”は、かつては全国からの参観人が年間千人を越したほどの魅力ある校舎である。
PTAの約半数が自衛官で、ある年は全国都道府県中で在学していない県が二、三県しかないということもあったほどだ。子どももPTAも、このような全国規模において学習し対応していけることは、郡下の先端をゆく本校教育の一つの推進力となっている。
昭和三十三年校舎全焼のあとをうけて、焼野原から再建へ立ち上がったPTAの熱意は、遂に驚威に価する明るい円形校舎―それも、『お前は地震(十勝沖)に強かった』とみんなに信頼される東北随一の学校を完成させた。PTA結成後十年あまりで県下にさきがけて文部大臣賞の栄冠に輝き、その洗練された活動には定評がある。(略)
『むつ市教育史(むつ市市制施行二十周年記念)』むつ市教育委員会(1979年)
下北初の完全給食実施まで
大湊小学校
工藤秀明
昭和三十三年一月三十一日未明、大湊小学校が原因不明の火災により全焼した。当時で七千万の財産を焼失したという町民の嘆きは大きく、「新校舎は燃えない学校を建てよう。」の悲願で、近代的で廉価、そして狭い敷地に効率的な校舎をの視点で視察研究の結果、鉄筋、円型、三階建を現在地ということに落ち着いた。早速中央に設計を依頼したところ千二百名の児童数と将来の学校教育を志向してということで立案し、当然給食も完全給食を考慮した図面ができあがり、それをもとに建築がすすんだ。
三十四年七月には全国でも珍らしいモダンな校舎の落成をみ、学校、PTA挙げて「新しい皮袋には新しい酒を」の合い言葉で、内容の充実に努力が傾けられた。(略)
『下北の昭和教育物語(支部発足五周年記念)』青森県退職校長会下北支部(1990年)
(略)
平成七年度に始まった校舎及び体育館、グラウンドの全面改築工事も順調に進み、今年度十月末までには竣工する予定である。大正十五年に完成した木造校舎が昭和三十三年一月に出火、折りからの強風に煽られて全焼し、新たに昭和三十四年七月に完成した校舎が円形校舎で、在校生はもちろん卒業生や地域の方々から「円い学校」と親しまれてきたが、校舎改築にともない、平成十年度に惜しまれながらその姿を永遠に消してしまった。しかし、伝統を内と外に刻んだその姿は、今でも多くの方々の語り種となっている。
(略)
『楽しい教室』大日本図書1999年二学期号より
38年間ご苦労さま
円い学校 なくなるとさびしいけれど……
「円い学校」「メガネ学校」と親しまれて来た、大湊小学校(杉山博美校長=児童数三百七人)がもうすぐ取り壊される。=写真=
昭和三十三年、旧校舎が火災で全焼。同三十四年「円い学校」が誕生し、多くの見学者が訪れた。当時は珍しい水洗トイレ、らせん階段、まっすぐ並べない廊下など、話題も豊富だった。
その円い学校も、三十八年が経過し、老朽化も著しく、市では昨年九月から、円形校舎の海側に新校舎を建設。三学期からは新校舎で授業が始まる。
同校では十一月一日、歴代校長、PTA、地域住民総勢五百人が参加して、「円い学校お別れ会」を開催した。
式典の中で杉山校長は、「円い学校からの手紙」と題して“児童へ。私への呼びかけ、「まあるい学校」の踊りの練習、一生懸命やってくれて有難とう。そして学芸会で見せてくれたその成果、立派に良くできました。私のために本当に有難う。ご来賓、ご来場の方々も、今までお世話になりました。心から感謝申し上げます。”と心を込めてあいさつ。続いて児童全員で円い学校へ「届け!さよならの詩」を呼びかけた。“ぼくのお父さんは円い学校を卒業したよ。(中略)…特に今年の運動会は覚えています。もしかして、あなたが雨を降らせたのかもしれませんね。最後の運動会を見たかったのかな。ぼくたちも、あなたに見てもらおうと、いっしょうけんめいがんばりました。よかったね、この場所で運動会ができて。(中略)…円い学校さようなら。”皆の声が、円い学校への感謝の気持があふれて、生き生きと感じた。そのほか、円い学校に関わるスライド上映、児童による合唱、「まあるい学校」の踊りなどが披露された。
また、午後には「別れを惜しむ会」がホテルニューグリーンに於て開かれ、およそ百人の参加者が集い、懐しい思い出に花を咲かせた。
『むつせいけい新聞』平成9年12月1日
悲しげな円形校舎
むつ市立大湊小惜しまれつつ取り壊し
建設当時全国から多くの見学者全国でも珍しい円形校舎として、地域の人々に親しまれてきたむつ市立大湊小学校(杉山博美校長、児童三百七人)の旧校舎の取り壊し作業が、年明けから本格化している。
円形校舎が建設されたのは昭和三十四年。鉄筋三階建て、延べ床面積は約四千六百平方メートル。教室は扇形、階段はらせん状で、ユニークでモダンな形が反響を呼び、全国からの見学者が年間一千人を超えたときもある。眼鏡の形をした白亜の校舎は大湊地区のシンボルとして、長年にわたり、子供たちや地域住民に親しまれてきた。
しかし、建築後三十八年がたち、老朽化が著しくなったことから、市は円形校舎の取り壊しを決定。冬休みを利用して、校舎東側に建設された新校舎(鉄筋三階建て、延べ床面積四千四百七十四平方メートル)への引っ越し作業が行われ、子供たちは三学期から新校舎で授業を受けている。
建設から三十八年、五千人近くの卒業生を送り出した“円い学校”。地域住民に惜しまれながら、撤去作業が淡々と進められており、外壁を取り壊された校舎が物悲しげに雪の中にたたずんでいる。作業は本年度いっぱい行われ、跡地は平成十一年度にグラウンドとして整備される予定だ。【写真】取り壊し作業が本格化している大湊小学校の円形校舎
『デーリー東北』平成10年1月19日
円形校舎よさようなら
大湊小きょう手作りお別れ会
築38年、老朽化進み解体
3学期からの授業は今月完成の新校舎で「円い学校さん、さようなら」―。全国でも珍しい円形校舎として、地域の人々に親しまれてきたむつ市立大湊小学校(杉山博美校長、児童三百七人)の校舎が、老朽化と新校舎の完成に伴い、本年度いっぱいで取り壊される。建設から三十八年、五千人近くの卒業生を送り出した“円い学校”に感謝の意を込めて児童と教師が一日、手作りのお別れ会を開く。
円形校舎が建設されたのは大湊、田名部両町が合併し大湊田名部市(現むつ市)が誕生した昭和三十四年。二年前に旧校舎が火災で焼失したのを教訓に、「燃えない学校」づくりを目指した当時の大湊町民と学校関係者が北海道小樽市の石山中学校を視察。そこで、円形校舎に出会ったのがきっかけとなった。
廊下が円の中心部にあり、その分、面積を減らすことができ狭い土地でも建てられるのが特徴。釜臥山の急しゅんな斜面に町が開けた大湊地区にとってはうってつけで、帰りの青函連絡船の中で円形校舎を造ることが決まった、という。
鉄筋三階建て、延べ床面積は約四千六百平方メートル。教室は扇形、階段はらせん状で、ユニークでモダンな形が反響を呼び、全国からの見学者が年間一千人を超えた時も。眼鏡の形をした白亜の校舎は大湊湾を行き交う船にとって、灯台のような役割を果たすなど、“円い学校”は大湊地区のシンボルとして、長年にわたり児童や地域住民に親しまれてきた。
しかし、築三十八年がたち、老朽化が著しくなったことから、市は昨年九月から円形校舎東側で新校舎(鉄筋三階建て、延べ床面積四千四百七十四平方メートル)の建設に着手。今月中に完成、冬休みを利用して引っ越しが行われ、三学期から新校舎での授業が始まる予定だ。
お別れ会は一日午前九時半から円形校舎の体育館で開かれる。子供たちと教師の手作りによる式典で、歴代校長やPTA、地域住民を合わせ約五百人が出席。児童全員が感謝を込めて、“円い学校”にささげる「さよならの詩」を朗読するほか、合唱やスライド上映なども行われる。出席者には子供たちがそれぞれの思いを記した児童文集が配られる予定だ。
杉山校長は「四月に赴任してきたばかりだが、子供たちや地域の人々の円い学校に寄せる思いは強く、深い。校舎に『ありがとう』との気持ちを伝えられるような式典にしたい」と話している。
『デーリー東北』平成9年11月1日
『むつ市教育史(むつ市市制施行二十周年記念)』むつ市教育委員会(1979年)
『下北の昭和教育物語(支部発足五周年記念)』青森県退職校長会下北支部(1990年)
『年輪(改築落成・創立125周年記念誌)』むつ市立大湊小学校(1999年)
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません