羽茂小学校
羽茂小学校(昭和37年築、平成5年解体)
新潟県佐渡市羽茂本郷559-1
4.円形校舎の建築事情と学校建築の完成
(1)円形校舎
高校の建設も一応終って、村から手が離れると、教育委員会は義務教育の学校建築に力を入れることになった。昭和三十三年、村助役岩林三春、教育委員金子利邦、葛原足太、堀切照与、羽茂小学校長酒川哲保、小村小学校長本間伊策、大滝小学校長中川安太郎、羽茂中学校長中山秀二の八人で、学校建築のための見学旅行に出かけた。先ず高岡で、円形建築の病院を見た。次に、金沢市の女学校の円形校舎を見た。京都へ出て、新しく善美を尽した、豊園小学校の鉄筋三階建の方形校舎を見た。次は奈良の帝塚山学園で、方形の小学高校と、円形の中学短大と附属幼稚園を見学した。
帝塚山学園は、広々した岡の起伏した地形で、丘の上に聳える、円形校舎の女子短大は立派だった。構造にも、色々面白い仕組の創意がこめられていた。例えば、中央ホールの外に、扇形の幼稚園の遊び場があり、円形のホールの中から、女子短大の学生達が幼児の行動観察する。その二つの障壁は、バックミラーになっていて、内からは幼児がよく見える。幼児は鏡として自分達の姿を見るだけである。
校舎建築ばかりでなく、日本最高の法隆寺や、唐招提寺等の建築も見学した。
葛原教育長は、それより先に、東京の青山にある坂本鹿名男建築事務所を訪れて、円形校舎の説明書を貰って来ていた。それが、今度の旅行に円形を多く見る動機となったのである。
昭和三五年十月二日午後、六時突如羽茂中学校の農具室から出火して、小・中共用の体育館を全焼し、小学・中学の校舎凡そ半分を焼失した。教師も、父兄も、母達も必死の防火で食い止めたが、夜半に鎮火してからも、母の会の一部が残って、校具や重要物件の処理を手伝ってくれた。
役場の狭い事務室や、保育所に運ばれた校具はそのままに、時報塔の下の野外に積まれた物件を、図書館等に整理してくれた。残った校舎は、警察が出入りを差止めてしまった。「重要書類と思われる物をK家に預けてあるから」と、わざわざ知らせて来てくれた母の会の人もあった。
川内村長は、その夜のうちに村会を招集して、後始末と校舎新築の計画案を練ってくれた。(前述)
翌日は、集った子供に説明して帰し休業した。そうして、教師は学習をはじめる準備にかかった。母母の会の殆ど全員が、自発的に出て来て手伝ってくれた。昨夜の運び出した物件の復旧に、警察の検査の済むのを待った。中には、教室の壁に貼った学級経営用の掲示物が、昨日と同じように同じ位置に貼られた。母達が、日頃から学習に理解が深い故の、珍しい奉仕であった。下越出張所の小林所長が、このことに深く感謝し激賞してくれた。(再掲)
川内村長、その朝呆然として立った職員を集めて、「日本一の新校舎を建てる計画はもう村会で決議した。心配しないで明日から勉強をはじめてくれ。」といって励してくれた。正午過ぎ、教育委員長酒川哲保、葛原足太、校長坂口春吉を役場に呼んで、「円形校吉とはどんなものか」と諮問した。坂口校長が学校に預かった円形校舎の説明書が、まだ行方が不明であったが、幸に役場の事務室に、他の物件と一緒にあって、三人で村会の席上で説明した。
・建築学上、最も堅牢で資材が節約的であること。
・廊下に当てる所が殆どなく三分の一の空間が節約されること。
・校地が非常に狭くてよいこと。
・使用上の便不便も有利な点が多いこと。
・光の取り方も却って有利で、扇形の奥の教壇近くでも、ルクス差が少く後向きでも手暗でないこと。(反射の応用)
・教室は窓に向かって明るすぎるので、完全なカーテンを要すること。
・西側の壁面利用は、方形の背面と異り、いながらにして観察し、参考の資となりやすいこと。等々を説明した。
一部の議員たちに、何か安物の感じだな、それならつまらんぞ。という人もあって、兎も角実物を見に行こうということになった。
間もなく、議会の文教部・建設部と教育委員・校長等十数人で、東京・横浜方面で、六校の円形校舎を見学し、使用上の実情も聞いた。
「美しくて、便利で、安くていいじゃないか。」ということになった。酒川教育委員長は、千葉の津田沼に回って、校舎の使用法について調べた。津田沼小学校には、二つの円形校舎があって、全国に知られた体育学校であり、流石によく使っていた。
新しい教育のために、円形の特色を生かす方法として討議室や、レクレーションのための室、音響が外に放射して、互に騒々しくないこと等の利点を教えられた。ベランダの利用も方形の窓とは比較にならず有利であることがわかった。階段のあたりの壁面は方形の壁が少く、抽象画的装飾を要すること等もその時実感した。中央のホールも、新しい社交のマナーを養成する場になりそうだと考え出した。
円形校舎の大きさの合理的限界と、学級数との関係で、三階の各階に、七教室分を取るのでは半教室不足である。一階には給食室を一教室半欲しい。保健室と用務員室を一教室分として、一・二年四教室とすると便所がとれぬ。二階では、三・四年教室四室の外に、工作室を一・五、準備室と便所をとると、やはり半教室足りない。三階は、五・六年の四教室と、図書室を一・五、資料教具室をとると、やはり便所がとれぬ。坂本技師に色々交渉して見たが、それ以上に直径を延ばすと価格が急増するという。葛原教育長の案で、便所を階段の外側に造ったら所用の半教室が出て来る。ということで、坂本技師も手を打って賛成した。
一つの至難の問題があった。羽茂の学校火災は、放火であるかも知れぬ。それがはっきりしない限り、起債の問題には解れられぬと、県側が突ぱねるのであった。
川内村長は八方手を尽して遂に塚田知事の理解を得て、学級数・児童数による計算基準の、七・五割の起債で打ち切ることまで漕ぎつけた。さて、円形校舎なら、いろいろの節約条件が附随して、七・五割の全額で建つ、殊に、講堂兼体育館を四階にとれば、それも予算内で建て上げられる。何よりも急ぐことは、一日も早く学習の場を与えることである。円形校舎の好適さは既に検討が終った。東京青山の坂本研究所に、設計の注文に出向いた。村長、教育長、委員長の三人であった。処が更にもう一つの難問が出て来た。坂本教師は、「新潟県は建築に対して実に頑固である。円形の建築などは、長岡の病院でさえもなかなか許可しなかった。学校建築に承認する筈がないからお断りする。設計には技術と時間と労力が要る。せっかく出来ても破約するに決まっている。」というのである。川内村長は、「文部省で認めるものを、県が許さぬというならば何処までも追求する。絶体迷惑はかけません。」といって契約をとりつけた。
まだまだ難問があった。現在の校地の地主が、移転を承知しなかった。九十才に近い老婆が、若い頃から苦心して手に入れた土地に愛着して離れなかったのである。これにも多くの物心両面の努力が必要であった。
右のような異常の努力と政略によって、円形校舎は、翌々年三月には略々落成した。六年生だけ新しい校舎で一ケ月学習させた。
建て終った校舎については、失敗も少々ある。大きな点は、やはり便所の位置である。階段は、内部から見る時、明るく外に開いた一番美しい場所である。そこを便所で建て塞いで、暗い処にしてしまった。出来れば方形校舎に繋がる廊下を、少し東へ行った処に造れば、もっとはなやかに、清潔な感じになったのである。そのことは後になって気付いた。今からでも改造することは不可能ではない。
体育館のステージなども、新しい校章を佐々木稔君の考案によって、横幕の上に据えたり、藤村忠吉氏の好意で、緞帳や袖幕を付けたりして昭和三十七年四月落成式を挙げた。
羽茂に円形校舎が出来ると、方々から見学に来た。北蒲原に間もなく出来たということだ。それよりも、観光の場となって、日曜祭日などには団体客が続いた。その為に赤痢菌が残されて、一時に多くの赤痢患者が発生し、一大事になったことがある。これは一大不祥事であったが、里道校医や、中川PTA会長、並びに会員、坂口校長、全職員の異常な献身によって、間もなく終息した。新穂の組合避病院に入院した二十人余りの赤痢患者児童が、藤井敏子(栄養婦)に引率養護されて、規則正しく、愛情に満ちた療養生活をしている姿は見舞のたびにほめられていた。
『羽茂小学校百年誌』(1976年)
村の中へはいって見るとその新しい何かを見つけようとする気風はそこここに感ずる。真野の方から丘をこえて羽茂の町の見えるところまで来ると、まず目につくのは円形校舎である。小中学校の校舎が木造からコンクリートにかわりはじめたころここでは円形校舎をたてた。そんな思いつきをする人たちのいるところである。
宮本常一著『私の日本地図7 佐渡』同友館発行(1970年)
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