浜井場小学校
浜井場小学校(昭和30年築、現役)
長野県飯田市小伝馬町1-3503
浜井場小学校は建設より五十年を経過した老朽校舎として危険に迫られ、之が改築は教育委員会の建築設計に於て緊急を要するものとして考究していたが、建築用地の狭隘、児童措置並に財政の問題に隘路があり之れを克服し得て然も児童が自ら学ぶ意慾を起さしめ、将来への明るい幸福がかもし出されるような麗美且つ衛生的な新しいデザインに依る建築を実現したいと苦慮した結果、斯界の権威坂本鹿名夫氏の設計に依る円形校舎を採り上げることにしたのである。
金沢市金城学園、又東京都山崎学園を市内小中学校長全員と視察し、教育環境並に教育実践の立場から調査して従来の矩形校舎を明細に長所短所を比較研究し、狭隘用地えの建築、児童措置、財政の大問題を解決し得て尚短所を補正し得る見込が立ったので既設の円形校舎、直径は25米であるがテラスを含めて31米として奥行を広くし、教室の換気に研究を加え、床に防音保温のレキセリユームを使い四階として吸音施設を施した音楽室を設置し温水、暖房、水洗便所に依り児童の保険衛生につき特に留意し施行したのである。
『山都飯田』飯田市(1956年)
飯田市にも円形校舎 長野県飯田市浜井場小学校に高さ22.5M 直径30Mの円形校舎が 工費3800万円で完成した これは金沢市の金城高校 東京練馬の富士見高校 新宿の文化服装学院に次ぐ第4番目の円形校舎として名乗りを上げたもの 子供たちは大喜びで通っている
『サングラフ6』サン出版社(1956年1月号)
天竜の清流を東に望む台地にある城下町飯田は、伝統と文化の町として南信の京都と呼ばれた。人情風俗にいわゆる飯田情緒を香高く発散する城下町としての歴史は、旅人に深い思い出の街として印象づけるものがあった。信濃にはめずらしく南国的な明るい街であるが、昭和二二年火災により一瞬にして市街の三分の二を烏有に帰し、詩の街の姿は消えた。その後都市計画法によるモデル都市として、飯田市は新しい山間の観光都市に生れ変りつつある。派手で新し屋の飯田人は街路にリンゴの並木を作り、円形校舎を建て、市中の墓地を整理して納骨堂とするなど、めざましい転生ぶりである。昔から商人は飯田へいく人間はしっかりした者を選んだといわれるが、昔ながらの消費都市にこそ街の特色はある。
下島正夫著『天竜川(角川写真文庫)』角川書店(1956年)
昭和二十二年四月、南寄りの強風下に発生した大火によって、市街地の約八十パーセントを焼失したが、その後、防火都市として復興し、防火緑地・防火用水・防火壁などが設けられた。この新都市計画にもとづき、市内の墓地は一カ所に集められ、全国的モデル都市の一つとなっている。この計画の際、街路にリンゴ並み木をつくり、円形校舎を建て、当時としてはモダンなドーム型の市公民館を建築した。
『日本の文化地理 第8巻』講談社(1968年)
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