マハヤナ学園撫子園

マハヤナ学園撫子園(昭和36年築、解体年不明)

東京都板橋区前野町5-7-10

四、マハヤナ学園撫子園
(略)
 昭和三十六年には現在の円形鉄筋園舎の建築が完成し、同時に定員九十名、園長職員以下十三名の大家族となった。
(略)
『大乗淑徳教本』(1963年)

 昭和三五年四月一二日の理事会で、「撫子園改築工事に関しては、当初の計画を変更して坂本鹿名夫氏設計による円形園舎を採用する。同建築は建坪少数にして、建築単価も従来の矩形建築より安価に出来るとの事で九百万円位にて三階建」にすること、また「社会福祉法人多摩太平園の併置経営、同園の理事長並びに園長(を長谷川が)兼任の件は、議長より太平園河村氏との話し合い経過報告のあった後、各理事いづれも了解しこれを承認した」ことにより決議されたのである。(略)
『社会福祉法人マハヤナ学園六十五年史 通史編』(1984年)

 新園舎建築の件は、国の補助金の額が予定よりも少なく、計画の再三の検討変更を迫られたが、目前に大勢の児童を見て縮小することもできず、不足分は大乗淑徳学園からの補助と、寄付募集で賄うこととした。総工費千四百万円の予算をもって鉄筋コンクリート三階建、総坪数二三三・九四坪の円形園舎の建築が、新工務店の施行により開始されたのは一〇月のことである。(略)
『社会福祉法人マハヤナ学園六十五年史 通史編』(1984年)

 昭和三六年五月初旬、待望の円形白亜の園舎が完成した。内容、外観ともに完備し、前野町地区では淑徳小学校の円形校舎と好一対をなした。撫子園の児童(一一歳男子)は新園舎について次のように綴っている。「もうすぐ僕達が楽しみにしていた円形の園舎ができます。住めるのは五月十四日に決まりました。部屋の中には八人づつはいれるようになっていて、一人一つずつロッカーがついています。三階には図書室。講堂などがあり、屋上に登ればマハヤナ学園のまわり一帯が見えます。お風呂も今度は改良風呂といって、一度に二つわかせるようになっています。便所も水洗便所で、もと使っていたのよりずっとよいです。ねる時もベットでねるので、たたみにふとんを敷いてねるより、ねごこちもよさそうです。部屋の中にはたたみ三じょう敷いてあります。学園(養護施設)では、マハヤナの建物が一番立派だそうです(以下略)」(『タイムス』第一四号)。五月一九日、三笠宮妃殿下をお迎えして新園舎の落成と学園創立四〇周年記念式典が行なわれた。当日はあいにく雨に降られたが、三百人を越える来客があった。(略)
『社会福祉法人マハヤナ学園六十五年史 通史編』(1984年)

旧児童寮使用理由
 当初木造平家延面積二〇九・〇九坪、収容定員七〇名の予定にて増築を申請していたが、養護施設多摩太平園園長病気のため経営維持不能となり、同園を併置経営する事になった。そのため更に三〇名分の増築が必要となったが木造平家建では、敷地の関係上、運動場が狭くなるため、鉄筋コンクリート三階建の円形建築を採用した。
 工費の関係では最初は二階建にて行う予定であったが、二階建よりも三階建の方が工費割り安になるため、三階に児童居室を五室(一室八名収容)設けたが、厚生省より、三階に児童を住まわせることは保全上望ましくないとの指示が出たため、竣工後取りこわす予定であった旧児童寮を半分(三八坪)残し、そこに三十名の高学年児童を収容する予定にしている。
『社会福祉法人マハヤナ学園六十五年史 資料編』(1984年)

折衝つづく……
 そんな折、近くの淑徳小学校が火災に遭い、漏電とはいえ一瞬にして一五〇坪の校舎が燃えてしまった。このようすを見て「これは木造では危険、特に児童が寝起きする収容の場の建物は、絶対に耐震・耐火でなければならぬ」との結論に達し、動きはさらに具体化した。まず、さまざまの建築士の門をたたき低廉でしかも便利、かつ施設の合理性を満してくれる構造などむづかしい注文をうけながら研究した。注文が注文だけになかなか良い案がないが、偶然、「坂本という人ならば円型でほぼその希望にそえるだろう」との説を聞き、さっそく依頼することになった。また業者の選定についても、理事会で再三協議し、新(あたらし)工務所と決定した。
(略)
『社会福祉法人マハヤナ学園六十五年史 資料編』(1984年)

 東上線常盤台から歩いて約二十分、閑静な住宅と畑にかこまれて真白い円型のモダンな三階建建物が高くそびえて立つ。知らない人なら誰でも「これが養護施設?」と思わず首をかしげたくなるほど本当に立派な園舎である。
(略)
『社会福祉法人マハヤナ学園六十五年史 資料編』(1984年)

『大乗淑徳教本』(1963年)

『社会福祉法人マハヤナ学園六十五年史 通史編』(1984年)

『社会福祉法人マハヤナ学園六十五年史 資料編』(1984年)