鹿屋小学校

鹿屋小学校(昭和32年築、昭和55年解体)

鹿児島県鹿屋市打馬1-1-6

第七章 学校の沿革

第一節 小学校の沿革

鹿屋小学校

(略)昭和三十年半円校舎第一棟竣工(二二五坪)、特殊学級新設。昭和三十一年自校製パン開始。昭和三十一年プール竣工。昭和三十二年円形プール竣工。昭和三十二年半円校舎第二棟竣工。(略)

『鹿屋市史 下巻』(1972年)

都市の話題

校舎ニユールツク

 池田光政公が藩学校を建てた縁りの地、岡山市弓之町の市立旭中学校に全国でも珍しい円筒型校舎を建築しようと、岡山市・同市教委では計画をたてている。

 金沢市の金城学園が昨年九月、日本で初めて円筒型校舎を建築。続いて東京の山崎学園でも完成したが、この様式にすると敷地・建築費が少なくて済むというので、倉吉・小倉の両市では既に着工しており、神戸・大阪の各市でも研究されている。

 岡山市の計画は鉄筋三階建でドームの真中は天井まで空洞になつており、この周囲にラセン型の階段を設ける。一五教室を扇型に配置した内側に廊下があり、外側は総ガラス張り、窓の外にはベランダをめぐらす。採光・通風・音響に充分な注意を払うという。

 鹿屋市では全国で初めてという半円型校舎を鹿屋小学校に建てた。これは円型校舎の長所を採入れて市建設課の設計したもので、鉄筋二階建八教室、工費八百万円、採光・通風満点で理想的な校舎と折紙がつけられている。丸亀市では工費一二〇万円で大手前高校に平家半円型校舎を建築したが、これは採光のため屋根をカマボコ型にしたもの、外側はレンガが使用され、耐火能力も充分である。

『市政 4(3)』全国市長会館(1955年3月号)

戦後十数年間の鹿屋小学校
 前田昌辰
(略)
 終戦後、復員・引揚者・帰郷者に続いてベビーブームが到来。小学校は二十六年ごろから児童数が急増し、おまけに鹿屋小学校は運動場前の木造二階校舎が老朽危険のため、大半使用禁止となり、教室不足をきたした。そこでその二階校舎十二教室分の敷地に、十六教室建設する必要があって、市当局の苦心調査研究の結果半円形校舎を造ることになった。半円形校舎は、背面光線とか雨天時に遊び場が不足するとか、いろいろ欠点もあることは最初からわかっていたが、安い経費で教室数をふやすためには、やむを得ない応急措置であったともいえる。それでも当時としては、良い学校だ、珍しい建築だということで、県内外からずい分と見学者があって、私は長所・短所・概要をプリントしたガイドペーパーを用意して案内説明をしたものであった。建築推移は、昭和二十九年四月から下二階校舎の解体工事が始まり、同年八月十日半円形校舎第一期工事(二二五坪・八教室)に着工、三十年三月二日竣工。その新教室に卒業前の六年生六学級と一年生二学級を収容した。さらに第二期工事(二二五坪・八教室)に三十二年五月一日着工、同年十月十八日竣工した。ここに半円形校舎十六教室が完成して、ようやく教室不足も鎮静した。
(略)
『百十五年の歩み』鹿屋市立鹿屋小学校(1985年)

鹿屋市立鹿屋小学校

サンシャイン池崎(卒業生)

『百十五年の歩み』鹿屋市立鹿屋小学校(1985年)

『鹿屋市十年の歩み』南日本新聞鹿屋支社報道部(1955年)

『鹿屋市制30周年記念誌(1971年版市勢要覧)』鹿屋市役所(1971年)

『鹿屋市制30周年記念「ふるさとの人々」』執印義広(1971年)

『写真アルバム 大隅半島の昭和』樹林舎(2018年)